

役者デビューは、忘れもしない保育園でのこと。鬼役の子が出れなくなって「誰か代わりに出る人」って言われて「ハイ!やります。出来ます。」って言っちゃったの(笑)。
中学生はバスケ部で、高校で演劇部に入りました。中部大会に毎年出てて、配役もオーディションで決める本格的な部活。1年生の時に主役をやって、2年生の時には台本も書きました。「生きている意味が分からない。消えたい。」と思ってるような内容だった。親の口癖が「自分で決めなさい。決めたことには責任持ちなさい。」小さな頃から一人の人間として育てられて来たから、学校では浮いてて、部活でも目立ってたから先輩に目を付けられたりして、常に戦って生きてた気がする。
大学は、女優の高泉淳子さんが演劇を始めた早稲田大学に入りたくて浪人して、2年目もダメだったから、多摩美術大学を受験しました。美大に入って初めて「自分はふつうの人間だ」って思えたかな。
大学の卒業公演では二人芝居を書いて、演じましたね。双子の話で、ひとりは就職をする。もうひとりは好きな事をして生きていく。「背伸びするにも、3センチくらいがちょうどいいよね」ってんで『3センチ』ってタイトルに。
大学卒業後も、バイトをしながらずっと役者やってました。「板の上で生きていく」って思ってました。
それまでに、会いたかった演劇人には大体会えて来たのだけど、ワインバーのバイト中に一番好きな高泉淳子さんが店にやって来て。そしたら私「小学校の頃から好きでした。」って大泣きしちゃって。クリスマスの直前だったんだけど、神様がプレゼントをくれたと思った。「今まで演劇よく頑張ったね。もういいよ。」って言われた気がして、それで役者を辞めることが出来たの。26歳の時でした。
27歳の時には地元で歌のライブをやったんだけど、お客さんがスゴク喜んでくれて。その時に「人を笑わすのも大切。自分で自分を笑わすのも生きている使命だな。」って気づいて。「○○になりたい」ではなくて「幸せでいたい」と思うようになりました。それまで、どこかで「役者をやって舞台に上がれば、お母さんが喜んでくれる」みたいな気持ちがあったから。
手術後は「人生からも悪いものを全て切ろう。」って決めたの。男も、仕事も、人間関係も。そこからちゃんと契約社員としてでも働こうって決めて。そうすると良い縁が流れてきましたね。
次の転機は2011年3月11日の、地震。職場の科学館が大揺れで、頭上で展示されてる模型とかがブランブランなってて「これ、当ったら死ぬな。」って本当の意味で死を覚悟しました。放射能のこともあって、東京から大阪へ移住することを決めたんです。なんとなく、1年くらい前から「あと1年したら私は大阪へ行く。」とも思ってて。6月から大阪での生活が始まりました。
【楽しいこと、将来の夢】
とにかく毎日幸せでいれればいいかな。それと子どもを生んでからも踊りたい。TAPとアフリカンダンスを「子どもと一緒に踊る」というのがひそかな夢です。
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●Y取材者コメント
彼女、大阪の街にとてもよく溶け込んでおりましたよ。直感にはしたがってみるものですね!